『 新 内 的 』 平岡正明著

(批評社・1990年刊)


  新内についての本だ。しかしジャズの本でもある。浄瑠璃の本でもあり、都々逸の本でもある。江戸文学が論じられたかと思うと、浪曲・講談につながり、河内音頭は言葉の怒涛と情感の極みにつらなってゆく。江戸音曲はこんなふうにこそ、論じてほしかった。ブルースはメロディーやリズムだけで論じることができない。言葉が決定的な役割を果たすことがあるし、節の様式にも馴れと新鮮さとの戯れがある。江戸音曲も同じだ。新内はとりわけ語りものだから、これを音楽の範疇でつかまえようとしても、かと言って文学論になってしまっても不可能。何もかもひっくるめて、心中する気で一緒に飛び込まなければ書けない。江戸論とはそういう世界なのだ。だからめったな学者が出る幕はなく、その白眉はときどきこうして、ジャズ評論家にさらわれたりする。

 江戸論はさらに、地面を飛び交って大衆文化にからみつかなくては書けない、という性質がある。浪曲、講談、民謡、都々逸、流し、枕絵、やくざ、博打、刺青、売春、芸者、そしてあらゆる病気、死、とりわけ心中。そのぶ厚い地層から立ち上がって来るのだから、文明人や文化人になったら最後、江戸から見はなされる。

 言葉が立ち上がるその瞬間に見えてくるものの中で、近代ともっとも違うのは「女」だろう。「近代文学ってなんだったのか。すっかり女がメソメソしてしまったではないか」と筆者もつぶやいているとおり、新内、浄瑠璃、読本などの中に登場する女たちは、まず度胸がある、腰がすわっている、自身の判断力があってきっぱりものを言う、運命を真正面から受けとめる、価値観が明快で、大事なもののためには金はおろか命さえ惜しまない、それゆえにこそ色気がある。江戸時代の女が皆こうだったとはとても思えないが、こういう女をよしとする美意識がいい。こういう社会では女たちが愛される理由と方法を考えたりはしない。新内についてはぴんと来なくても、この本を読んで、女がいいな、と思えれば、もう江戸文学の世界なのだ。

  とにかく、ぞっくりと深く、内側からさぐっている。馬琴の読本も、「明烏」
も「蘭蝶」も「婦系図」も「無法松の一生」も「高橋お伝」も「唐人お吉」も。彼らの生き方の中に音がありリズムがあり節がある。その捨てられてしまった生き方が、文弥をはじめとする新内語りたちによって、そしてそれを書くこの著者の節(そう、いつも彼の文章は音楽だ)によって、甦ってくる。


(『朝日ジャーナル』)


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