この本を読んで、なにやら背中がぞっとする気分にならなかったら、ちょっと想像力に欠けるかも知れない。なぜならこの本は江戸時代について書いてあるのではなく(正確には――書いてあるばかりでなく)1995年から2000年を経て、この後5〜10年ばかりうちにやってくるであろう、日本の状況を描いているからだ。占いの本? そうでないはない。が、あまりにリアルなそのカタストロフィの連続波は、歴史に物理学というものがあれば、幕末も今日もきっと同じ法則下にあるに違いない、と思わせる。私はぞっとした。
1855年、安政大地震。1866年、5月29日から6月5日にかけ、江戸だけで226軒の打ち壊しがあった。1867年、「ええじゃないか」の嵐が全国を吹き荒れる。むろんその間に風水害、コレラ、暗殺事件、長州戦争、一揆、物価高騰が次々と起こり、1867年、大政奉還。1868年、明治維新、となる。270年間の江戸時代の幕が、こうして閉じた。本書に繰り返される安政大地震の震動は、まるで幕府崩壊に至る13年間の開幕のように見える。
「災害には不思議な集中の法則があるものだ。悪いことは一遍に起きるのである」「巨大災害や社会変動のさなかには歴史の天空とも呼びたくなるような視界が開けることがある。生々しく衝撃的な現実を透過して、何かこの世の物ならぬ光景を垣間見る思いがするのである」――予言のように響くこのような言葉の断片だけが、不吉な思いを喚起するわけではない。むしろこの言葉を支える現実の波が、読みながら私たちの中に押し寄せて来るのだ。
安政大地震直後の吉原の酸鼻、しかしその中に生まれ出る都市神話から始まって、やがて視線は江戸の水に流れる幾多もの死骸にそそがれる。しかしそれは従来のように『四谷怪談』のグロテスクの話にとどまりはしない。「幕末の十数年間は江戸には立て続けに自然災害が襲い、その有様はほとんど自虐的ですらあった」という、そのことに直結しているのだ。めったに起こらない殺人よりむしろ幾多もの災害が死骸を生み出し、人々の間を流れ行く。
なぜ幕末か?
政治経済と自然災害に必然的関係があるはずはない。地球環境問題に悩まされている我々の時代ではあるまいし。なぜ打ち壊しとええじゃないか、なのか?打ち壊しは「盗まない、殺さない、燃やさない」という規則を守った冷静な政治的デモンストレーションだった。それが狂騒的浮かれ騒ぎと、意図的な結びつきがあるわけはない。ここに描かれているすべての事柄は従来、相互に関係のない事柄とされてきたものばかりである。
しかし筆者は言う。「打ち壊しは「政治的」であり、「ええじゃないか」は「宗教的」だという二分法は、現実の豊富な多様性の前には何の役にも立たない」(『安政江戸地震』)と。「自然災害」「政治」「宗教」等々のあらゆる分類を、筆者は『安政江戸地震』と『江戸のヨブ』の二冊で取り外してしまった。まさに幕末がそういう時代だったからである。そして今が、そういう時代だからである。筆者は阪神淡路大震災を自ら経験した後、この二冊の本を書いた。「この世の物ならぬ光景」を見てしまったからかも知れない。その目で江戸を眺め、そのまま視線を今に移動してみれば、まさに現代は、大震災後のカタストロフィに突入しているように見える。この本が予言の書に思えるゆえんだ。
さて、死体の流れる江戸の地下水脈のあと、本書は彼が「江戸のヨブ」と呼んでいるある人物の心の闇に入り込む。ここで書かれている大谷木醇堂と次の章「近代小説の懐胎」で書かれる鈴木桃野はまったく異なった性格の持ち主だが共通点がある。従来の書物や文章や教養といった枠にとらわれることなく、まっさらな身体の中に、目の前に生々しく生きている現実の人間を次々と語り入れている点だ。ただし大谷木はそれが自分自身の物語であり、鈴木はそれが周囲の人間の物語であった。また鈴木はその執筆がペリーの来る直前であり、大谷木は安政の大地震が、自分の不運物語の一頁を飾ることとなった。いずれも幕末の人間である。
それにしても、ここではジャンルというものが裂けて、その下の地下水脈が見えている。文学や文章のジャンルはしょせん後世の学者が適当に枠づけたものだが、その適当が案外効きすぎて、「物蔭の声にならない嘆き、けだるい生あくび、さなきだに人口過剰の社会そのものが立てるぎしぎしした軋みをも聞き分けて、言葉の形を与え」たこのような文章を、なかなか発見するに至らない。筆者のように生々しい人間を凝視する強靱な目さえあれば、江戸はまだまだ文学の宝庫であった。
この本には序破急の構造がある。大地震の「序」、現実と人間を凝視する文学がもたらす「破」、そして、自然災害、人間たちの生身の姿、打ち壊し、ええじゃないかが一体となって、一挙に崩壊に向かって登りつめてゆく「急」である。その全体が立体的な世界を構成している。地下水脈にうごめく神経症的な心の群や、さらにその地下深くに潜む大地震の震動を通底音として、災害は社会変動とともに何もかもを一緒くたに巻き込みながら最後の総踊りを踊り、「江戸時代」が喧噪の中で闇の彼方に去ってゆく。
本のタイトル『江戸のヨブ』は、旧約聖書の善人ヨブからとったものであろう。ヨブ記は非常に深刻な議論の書だ。地上のありとあらゆる不幸に次々と見舞われたヨブが、とうとう最後に自分の生を呪う。その言葉に友人たちは反論し、最後に神が登場してヨブを諭す。ヨブが呪うことをやめて再び神の意志を受け入れるようになると、神はこんどはありとあらゆる幸福をヨブに授ける。この結果の部分はともかく、友人との議論は、人間は人生の苦しみをどのように受け入れるべきかが生々しく語られていて面白い。大谷木醇堂もそして平穏に見える多くの江戸時代人たちも、やはりそのような普遍的な問いに突き当たっていたと思うと、急に身近に思えてくる。
これから我々の二一世紀には何が待ち受けているのだろうか。幕末の人々が自分たちの生きている毎日を決して幕末とは考えなかったように、我々の今日も、あとから見れば何かの「末」と名付けられるであろう。『江戸のヨブ』はそのサブタイトルに「われらが同時代・幕末」とある。「われら」の時代には、いったい何の終焉が迫っているのだろうか。「ええじゃないか」の声が、すぐそこに聞こえてくる。
(図書新聞 2000年1月15日号より。著者の紹介はこのコラムのために書いた) |